中弁連の意見

 当連合会は、人類共通の最優先課題である人権の保障を国際基準にそって実現するためには、行政機関から独立した国内人権機関が、いかなる外部勢力からも干渉されない立場から、立法・政策提言や人権教育を行い、公権力による人権侵害をはじめ私人間における差別行為などの人権問題を実効的な手段によって解決する権限をもつことが必要であることを確認すると共に、以下のとおり宣言する。

  1.  あるべき国内人権機関については、地方自治体が独自に条例で設置することも有意義かつ有益である。
     即ち、人権侵害・差別事象は地域社会で起きるものであるから、現実に発生する人権侵害から被害者を迅速かつ効果的に救済するために、それぞれの地方における立法事実を汲み上げ、その地方の実情に応じて人権機関を設けることが有意義である。また、国が実効性ある人権機関を設置していない現状では、各地方自治体において実効性ある人権機関を創設し、地方から人権侵害を救済していき、その取り組みを全国へと広げていくことが、わが国における国際人権基準の実現に資することにもなる。
     
  2.  しかし、私人間の加害行為の救済において、人権救済機関の一方当事者の救済が他方当事者の人権侵害となる危険性に鑑みるとき、人権侵害の厳格な実体規定や調査過程等における適正手続への配慮を欠き、あるいは、私人に過度の不利益を科すなどの権力的な措置を有する人権救済制度の設置は到底許容できない。
     
  3.  われわれは、国内人権機関の設置に関し、人権救済の美名のもとに新たな人権侵害がもたらされる危険性に強く警鐘を鳴らすと共に、その危険性を最大限排除したあるべき国内人権機関の設置に向けて全力を挙げて努力する。そしてその運用を通じ、人間の尊厳が維持され、人権の保障があまねく行き渡る社会を実現することに全力を尽くすことを決意する。

2006年(平成18年)10月13日

中国地方弁護士大会

提案理由

1 国際人権基準の設定と国内人権機関設置に向けた国際的な流れ

(1)国際人権基準の設定
 国連は、2度の世界大戦の反省に立ち、国際平和の維持と人権の尊重をその目的として歩み始め、1948年(昭和23年)、世界人権宣言を採択し、人権及び自由を尊重し確保するために、すべての人民とすべての国とが達成すべき共通の基準を定めた。
 以降、これに続いて現在まで27の人権諸条約が採択され、これらの人権諸条約によって国際人権基準が設定されるに至り、この基準は、国連人権委員会及び人権小委員会の活動並びに地域人権条約の運用などによって、国際的、地域的に実施され、一定の成果を上げてきた。
 しかしながら、主権国家からなる国際社会においては、人権が実際に保障されるためには、まず、個々の国家が国際基準を尊重し、これを国内において実現することに待つほかない。それ故、主要な人権諸条約においては、締結国が、その実施義務を負うことを明文で規定している。国際人権基準は、各国の国内で具体的に実施されなければ画餅に過ぎず、いかにして国際人権基準を現実化していくかが現代の喫緊の課題となっている。

 

(2)国内人権機関設置に向けた国際的な流れ
 これまで、人権諸条約の実施が芳しくないという問題意識のもと、1990年代に入り、国連は、一連の国際人権基準を各国内で実施する仕組みとして、国内人権機関の役割を重視し始めた。
 1993年(平成5年)、国連総会は「国内人権機関の地位に関する原則(パリ原則)」を採択し、ありうべき国内人権機関のモデルを提示しつつ、人権の促進と保護の権限を付与された国内人権機関の創設を各国に求めた。
 パリ原則は、国内人権機関には、政府からの独立と構成員の多元性が保障されなければならないものとし、その権限として、政府、議会等に対する提言勧告、人権条約の履行の確保、人権教育などを例示し、さらに準司法的権限を与える場合の原則を示した。
 さらに、1993年(平成5年)世界人権会議は、「ウィーン宣言及び行動計画」を採択し、あらためて国内人権機関の意義を確認した。1995年(平成7年)には、国連人権センター(現人権高等弁務官事務所)により、「国内人権機関:国内人権機関の設置と強化に関する手引き書」が刊行され、より具体的な国内人権機関のあるべき姿が提示された。
 このような流れを背景に、各国において設置される国内人権機関は増加しつつある。

 

2 わが国における国内人権機関設置に向けた流れ

(1)国内人権機関の不存在
 日本においても人権諸条約の批准はある程度なされてはいるものの、立法・行政措置による国内実施はいまだ十分とは言えない。裁判には費用や時間がかかるうえに、裁判による救済を受けることが困難なケースも少なからず存在するにもかかわらず、簡易、迅速且つ適切で利用しやすい実効性のある人権救済制度は存在していない。
 さらに、日本を含むアジア地域には、いまだ地域人権保障機構が設立されておらず、国内レベルでも、国際地域的にも、国際人権基準を実施する機関がないのがわが国のおかれている実情である。

 

(2)国の人権機関である独立行政委員会設置に向けた動き
 1998年(平成10年)、国際人権(自由権)規約委員会は、総括所見において、人権侵害を調査し、救済を図るために利用可能な人権救済制度が日本には欠如していることを指摘して、独立の人権救済機関の設置を勧告した。この所見では、法務省の人権擁護委員制度がかかる独立の人権救済機関に該当しないことが明言され、また、わが国における裁判において国際人権(自由権)規約が被害者の救済のためほとんど用いられていないという実態を踏まえ、同規約について裁判官に対する教育を強く求めていることが特徴的であった。
 この勧告を受け、わが国においても、国の人権機関として独立行政委員会の設置の必要性が叫ばれ、それに向けた具体的な議論が行われるようになった。日本弁護士連合会も、2000年(平成12年)の人権擁護大会(岐阜)にて、「政府から独立した調査権限のある人権機関の設置を求める宣言」(以下「人権擁護大会(岐阜)宣言」)を採択、宣言した。この宣言は、人権救済、立法・政策提言及び人権教育を行うため、パリ原則にのっとり、準司法的権限を持ち、実効ある救済措置を講ずることのできる独立行政委員会の設置を、国に対して求めることを内容とするものであり、公権力の行使に伴う人権侵害も当然に管轄することを求めていた。
 他方で、上記人権擁護大会(岐阜)宣言は、その提案理由において、人権救済の手続及び判断に際しては、他の人権や大学の自治、弁護士自治、報道の自由などとの関係に十分配慮する必要があり、また救済措置の前提となる調査権限の範囲やその行使方法についても公権力を対象とする場合と民間を対象とする場合との差異を含めて慎重に検討する必要があると注意を喚起することによって、人権機関の設置が新たな人権侵害を惹起しうる危険性についても指摘するものであった。

 

(3)人権擁護大会(岐阜)宣言以降、国レベルでは人権擁護法案が提出され、また地方レベルでは包括的な人権救済立法である鳥取県人権救済推進及び手続に関する条例(以下「鳥取県人権救済条例」という)が可決される等の国内人権機関設置の具体的議論の中で、これらの問題点について、より具体的な検討がなされることとなった。その経過は以下の通りである。

 

3 人権擁護法案の提出と廃案

 2002年(平成14年)3月8日、政府が第154回国会に提出した人権擁護法案は、新たな人権機関の設置を目的とするものではあったものの、人権侵害や差別的言動の規定があいまいである、委員の多元性の保障がない、メディア規制の危険性、適正手続きの欠如などの問題があったうえに、とりわけ以下の点で機関の独立性を欠くという重大な欠陥が存在した。

01.gif 人権委員会は独立行政委員会とされるものの、法務省の外局とされ、法務大臣が所轄することとされていた。名古屋刑務所事件にみられるような公権力による人権侵害をいかに救済するかが人権委員会の中心課題であるにもかかわらず、人権委員会が刑務所、拘置所、入管を所管する法務省におかれたのでは、実効性を期待できない。

02.gif 必要十分な数の専任職員を置かず、その事務を地方法務局長に委任していた。これでは、法務大臣の指揮下にある地方法務局が人権委員会の仕事をすることになり、行政からの独立が全くないことになる。

03.gif 労働分野での女性差別や退職強要・いじめ等の人権侵害については、厚生労働省の紛争解決機関に委ねてしまい、特別人権侵害調査などの権限は厚生労働大臣(船員は国土交通大臣)にあるものとされ、この分野における救済機関の独立性は全く考慮されておらず、労働分野での人権侵害の救済の実効性を期待できない。

 同法案は、パリ原則などが要求している国際水準に到底達しているとはいえず、日弁連も、「人権委員会」の独立性を確保するための最低条件を示して法案の見直しを求める意見を表明したほか、国内外から批判が相次ぎ、結局、2003年(平成15年)の衆議院解散の際に廃案となった。その後、人権擁護法案は修正案の再提出が検討されるなどしたが、いまだ国レベルでは人権機関の設置には至っていない。

 

4 鳥取県人権救済条例の成立と問題点

 2005年(平成17年)10月12日、鳥取県議会において、鳥取県人権救済条例が成立した。国の人権擁護法案の成立の目処が立たない状況下で、地方自治体が人権救済機関の設置に向けて率先して行動しようとしたこと自体は、評価すべきものではあったが、同条例には、以下の諸点について看過しがたい問題点が存在した。

01.gif 人権侵害の救済予防の申出がなされ、これについて人権侵害救済推進委員会(以下、「委員会」という)が人権侵害性を認めた場合、委員会は侵害者に対し助言、説示、啓発、是正等の勧告を行うこととされているが、侵害者とされた者には実質的な弁明権が付与されておらず、適正な手続の保障を欠いている。

02.gif 人権侵害の概念が曖昧である上、近代市民社会において最大限に尊重されるべき報道の自由(国民の知る権利の保障)を含む表現の自由(憲法第21条)が不当に制限される。

03.gif 委員会が行う調査に協力しない当事者に対して「5万円以下の過料」が科せられるという罰則規定が定められている。

04.gif 公権力による人権侵害に関しては、当該関係行政機関の長の判断のみにより調査協力の要請を拒むことが認められており、公権力による人権侵害に対する救済が、極めて不十分である。

05.gif 委員会について、職務権能行使についての独立性は保障しているものの、委員の任命、予算の編成、事務局の職員の選任、規則の制定がほとんど知事の権限とされており、行政からの独立性が不十分である。

 この条例は、廃案となった国の人権擁護法案の問題点を解決していないうえ、公権力による人権侵害については極めて弱腰であり、行政機関の調査拒否権を認めていた。このような制度は、国家・行政権力による干渉を排除するという近代憲法の人権保障規定の本質に反し、却って、かねてから存在する公権力による人権侵害の状況を温存・放置することになる。さらに、国家・行政権力が私人間の紛争に介入することによって、公権力が市民の生活に干渉し支配する統制社会の到来を招くとともに、人権機関による人権侵害という最も避けるべき重大な事態を生じさせるおそれがあり、到底容認できない。

 この条例案に対し、鳥取県弁護士会は会長声明を発しその制定に反対する立場を明らかにした。また、条例制定後は、本条例の施行前における改廃を強く求める旨の臨時総会決議を行って、その施行の阻止に注力した。

 また、日本弁護士連合会も2005年(平成17年)11月2日、鳥取県人権救済条例に関する会長声明を発し、同条例の問題点を指摘して、条例の抜本的手直しを要求した。更に、当連合会に所属する広島、岡山、山口、島根の各弁護士会も共同で、鳥取県人権救済条例に対する意見書を発し、条例の抜本的見直しを要求した。

 また、報道機関に対する除外規定のない条例に対し、マスコミ各社からもその危険性を指摘する声明が出されるなど、県内外から嵐のように反対論が投じられるところとなり、この条例の問題性が市民の間に改めて明らかになった。

 このような中で、県議会は本年2月、同条例の2006年(平成18年)6月の施行を無期限凍結する条例を可決した。

 その後、鳥取県は、学者、弁護士、有識者らによって構成される条例の「見直し検討委員会」を結成し、条例の改廃を含む取り扱いについて検討を進めている。

 

5 地方における人権救済制度の必要性とあり方

 差別をはじめとする人権侵害は地域社会を舞台として発生する。従って、日常の現場で生じた差別などの人権侵害については、各地域に設置され、地域の実情に通じた人権機関が救済の手段を講じることが、簡易迅速且つ適正な人権救済に資する。工夫次第では地域において発生する各地の人権侵害の実情に即した機関構成が可能となり、条例制定過程における市民間の議論の高まりによる啓蒙・啓発効果も期待できる。また、国に実効性ある人権機関が存在しない現状では、各地方自治体において実効性ある人権機関を創設し、地方から人権侵害を救済していき、その取り組みを全国へと広げていくことが、わが国における国際人権基準の実現に資し、有益である。そうであればこの地域機関を国の立法によらず独自に条例で設置しようとすることには、合理性が存在する。

 各地方自治体における人権機関の具体的なあり方は、今後の検討課題であるが、各地で制定される条例は、鳥取県人権救済条例の制定、改廃の議論の中で明らかとなった問題点に照らした場合、少なくとも、以下の点に留意し、慎重に検討されなければならない。

(1)独立性の確保
 独立行政委員会のような行政からの独立性が担保された機関の設置が必要であるが、それが法律上困難である場合でも、可能な限り構成員の多元性の保障、選任方法により独立性が確保されるよう努めなければならない。

(2)公権力による人権侵害に対する権限
 人権保障の本質を考えるならば、公権力による人権侵害の防止・救済が主眼たるべきである。その観点からは、公権力による侵害を除外すべきではなく、かえって強い調査権限や救済権限が及ぶことを認めるべきである。

(3)私人間の人権侵害に対する介入について
 私人間の人権侵害については、現に差別行為等が行われている場合などに介入の意義はある。しかしながら、元来私人間の紛争は私的自治による解決を原則とするものであり、公権力が介入することは慎重でなければならない。即ち、調査に対する協力の義務化や救済権限に罰則や公表等の強力な手段を付与することは、諸刃の剣であり、新たな人権侵害の危険性をもたらすものと言わざるを得ない。そこで、救済方法としては原則として調停などのゆるやかな関係調整権限に留めるべきであり、例外的に強力な救済権限を付与する場合であっても、明確な実体法を制定し、その必要性と許容性を慎重に吟味し、強力な手段の発動は必要最小限度の範囲内に限定すべきである。

 

6 まとめ

 基本的人権の擁護は、弁護士の基本的な使命であることは言うまでもない(弁護士法第1条)。鳥取県人権救済条例が無期限凍結となったのはその内容に多大な問題があったからである。当連合会としては人権擁護のために邁進するものであり、パリ原則に沿った国内人権機関の設置を求める姿勢にはなんらの変化はないことを確認する。

 と同時に、当連合会としては、国内人権機関の設置に関し、人権救済の美名のもとに新たな人権侵害が発生する危険性に強く警鐘を鳴らすと共に、上記弊害を生じさせる危険性を最大限排除したあるべき国内人権機関の設置に向けて全力を挙げて努力する。そしてその運用を通じ、人間の尊厳が維持され、人権の保障があまねく行き渡る社会を実現することに全力を尽くすことを決意する。

 よって、主文のとおり宣言する。